いつもより少しフォーマルな服を着て、いつもより少し化粧にも気合いが入った。春花は鏡の前で角度を変えながら何度も自分の姿を確認する。乱れたところはないだろうか。春花と静は高校を卒業してから一度も会っていないが、静が益々魅力的な男性になっていることを春花は知っていた。それは街に掲げられているポスターであったり、テレビを賑わすワイドショーから得た静の情報だ。静は高校生のときもかっこよくて優しくて思いやりがあって、春花は何度も告白しようと思った。けれど告白してもしフラレたら、もう一緒にピアノを弾くことができなくなるかもしれない。この幸せな時間が一瞬で崩れ去るかもしれない。そう考えると、どうしても告白する勇気が出なかった。ずっとキラキラした綺麗な思い出として残しておきたかったのだ。今さら静とどうこうなる気はない。だがそんな気持ちとは裏腹に、春花は無意識に身なりを整えていた。駅前の花屋で足が止まる。花束を持っていったら迷惑だろうか。そんなことを思いつつも春花の気持ちは高まりを抑えられない。「すみません、花束を……」今できる最大限のお祝いをしたい。春花は静のイメージである淡い色合いの花を見繕ってもらい、胸に抱えて会場へ急いだ。会場では花束受付と書かれた専用のスペースが儲けられており、すでにたくさんの花束で溢れていた。その花々はとても豪華で美しく、春花は自分の持っている花束と比べて落ち込んでしまう。急にみすぼらしく思えてしまったのだ。「花束の受付はこちらです」「あ、はい、すみません」声をかけられて春花は急いで受付へ花束を託す。「こちらにお名前のご記入をお願いします」「……はい」ご芳名と書かれた紙に山名春花と書く。このたくさんの花束の中では春花の花束は埋もれてしまうだろう。名前を書いたとしても、果たして本人に見てもらえるかわからない。(有名人だもの、直接渡せなくて当たり前よね)頭の中では理解しているものの、やはり一言静にチケットのお礼を言いたかった。静は有名人だとわかっていても、同級生なのだから簡単に会えるのではないか、そんな甘い考えでいた春花だったが、静はもうずいぶんと遠いところにいってしまったという実感がわく。春花の手の届かない、遥か先にいるのだ。
満員のコンサートホールの中央前列を指定された春花は、先程からソワソワと落ち着かないでいた。後ろの方や端ならともかく、舞台から近いここは明らかに特等席なのだ。自分がいていい場所なのだろうかと何度もチケットを確認するが、席の番号は間違いない。ブザーが鳴り、ホールが薄暗くなった。ざわざわとしていたホール内も波が引くようにしんと静まり返る。その刻が近づくにつれて、春花の心臓はドキドキと高まっていった。パッと舞台に照明が輝き、舞台袖にスポットライトが当たる。わき起こる拍手に春花は肩をびくつかせながら、遅れて手を叩いた。カツカツと足音が聞こえる距離に、心臓がきゅっと音を立てる。タキシードに蝶ネクタイ。スラリと伸びた手足はスタイルのよさを引き立てる。かっちりとセットされた髪の毛は高校生のときとは違って、大人になったことを証明しているようだった。(これがピアニスト桐谷静……)あまりの美しさに見とれていた春花だが、ふと目が合った気がしてまたドキッと肩を揺らした。その流した目線は春花をとらえるとしばらく留まっていた気がしたのだ。(まさかね、偶然でしょ?)煌々と照らす照明は客席からは舞台がよく見えるが、舞台から客席はほとんど見えないはずだ。例え見えていたとしてもうっすらで、目が合うようなことはないだろう。それでも春花の気持ちは益々高揚していった。グランドピアノが照明によってより一層厚い存在感を出しているのに、舞台に立つ静はそれに負けないくらいの圧倒的存在感を醸し出していた。まだピアノに触れてさえいないのに、静の立ち振舞いは春花の心を揺さぶり続ける。
しんと静まり返るなか、ポロン……と演奏が始まった。普段聴いているCDの音源とは似て非なる重厚なグランドピアノの音。力強い音も繊細な音も、その音一つ一つを静が紡ぎ出していることに春花は鳥肌が立つほど体が震えた。鍵盤を叩く音の響きのみならず弾いている動作までもが美しく、静も含めすべてが芸術作品のようで観る者を魅了して止まない。これが、ピアニスト桐谷静の魅力なのだろう。春花は余計なことを考える余裕もなくなって、じっと静の演奏を見つめていた。静の繰り出す音楽という優しい空間に身を委ねる。それはまるで海の中を漂う海月のように、ふわふわ、ふわふわ、と。圧巻の演奏が終わり拍手喝采で幕が閉じた。ホールの照明が灯りまわりの客がぞろぞろと出口に向かって歩き始めるも、春花はしばらく呆然としていた。演奏の余韻が体中に広がって感動に包まれる。(すごかった……)感動を胸に、春花も遅れてホールを出た。外はすっかり暗くなっている。携帯電話の電源を入れて時間を確認し、最寄り駅まで歩き出したときだった。「山名!」突然背後から名前を呼ばれ、春花は振り向く。「……桐谷、くん?」息を切らしながらそこに立っていたのは、タキシードの上着を脱いだ軽装の桐谷静だった。
静はまわりに配慮しながら春花を人気の少ないところへ誘導する。先程まで演奏していた静が姿を現したとなれば大騒ぎになってしまうからだ。春花もそれを察知し、こそこそと隠れるように身を隠した。もう手の届かないところにいると思っていた静が春花の目の前にいる。高校のときと変わらず「山名」と苗字を呼んでくれる。その事実が何よりも嬉しかった。「山名、来てくれたんだ」「うん。桐谷くん、今日は素敵な演奏ありがとうございました。チケットも」会話をするのは実に五年ぶりだというのに、二人の間にぎこちなさはまったくない。むしろ再会できたことの喜びが溢れ出てくるような、そんな気持ちの高まりがある。「うん。来てくれて嬉しいよ」「夢を叶えたんだね、本当にすごいよ」「山名はピアノ続けてる?」「うん。楽器店で働きながらピアノの先生をしてるよ。まあ、桐谷くんとは雲泥の差だけどね」自虐的に笑いながら、春花は感傷的な気分になった。静との差を自ら評価してしまったことでなんだか惨めな気持ちになる。「山名……」静が口を開くと同時に、春花の携帯電話がけたたましく鳴り出す。ビクッと肩を揺らしながら春花は携帯電話を取り出す。誰からの着信か大方予想はついていたが、春花は画面に表示された名前が思っていた通りの人物で、ガックリと肩を落とした。
「ちょっとごめんね」「ああ、うん」静に断りを入れてから、春花は電話を耳にあてた。「……うん、今仕事終わって帰るとこ。だから仕事だってば。……すぐ帰るから」やはり電話の主は高志で、今どこにいるんだ、帰りが遅いなどと文句を連ねる。ため息深く電話を切ると、静が怪訝な表情で春花を見ていた。「あ、ごめん、桐谷くん」「山名、もしかして無理やりコンサート来てくれた?」「え? ああ、いや、無理やりっていうか、桐谷くんのコンサートに来たかったのは本当。……実は彼氏の束縛が激しくて、内緒で来たの」「彼氏の束縛?」「あはは、もう、困っちゃうよね。束縛なんてさ」笑いながら何でもないように言う春花だったが、静の表情は益々強張った。そしてうかがうように聞く。「山名、今幸せ?」「え?」「彼氏に束縛されて幸せ?」ドクンと心臓が嫌な音を立てる。その確信を突いた問いは、春花の心をざわざわとさせて落ち着かない。「……ど、どうかな、あんまり幸せじゃないかも」「山名……」「ごめん、そろそろ帰るね。これからも頑張ってね」春花はふいと目をそらすと静の元を去ろうと足を踏み出す。だが、ガシッと左腕を掴まれ驚きのあまり足を止めた。「待って。次も来て」その意思の強い綺麗な瞳は、春花をとらえて離さない。春花は小さくすうっと息を吸い込んでから、「うん」と頷いた。その答えを聞いてから静はそっと手を離し、春花は控えめに手を振ると急いで夜道へ消えていった。静は複雑な気持ちで、春花の姿が見えなくなるまでずっと後ろ姿を見つめていた。
静に掴まれた手首がずっと熱を持っているようで、春花はあの日以来何度も左手を胸に抱えていた。事あるごとに高校時代が頭の中でよみがえり、そして変わらず素敵だった静の姿を思い出してはドキドキが止まらない。「山名さんも桐谷静のファン?」社員割引でCD購入の手続きをしていた春花に、店長の久世葉月《くせはづき》が声を掛けた。「え?」「毎回買ってるよね。いいよね、桐谷静」「はい、すごく癒されます。流れるような旋律がとても好きで目標です」「うんうん、わかる。山名さんのピアノ、桐谷静に似てるよね」「えっ? そうですか?」「何かこう、体全体で表現するとこっていうのかな。ピアノとの一体感が凄いっていうか。そうそう、山名さん、レッスンの評判もいいみたいね。これからも頑張ってね」「はい、ありがとうございます」葉月は敏腕店長で、楽器店の売上が横ばいだったり伸び悩む店舗が多い中、ここ数年は右肩上がりで売上を上げている。楽器を売ることはもとより音楽教室にも力を入れていて、指導に関して経験の乏しい春花も入社後は葉月によって鍛え上げられた。今では一人前に先生と呼ばれ、一度ついた生徒が辞めることは滅多にない。だからこそ、忖度なしの葉月の言葉は重みがあり、春花は嬉しくも照れくさい気持ちになった。
仕事が終わり家に帰ると、玄関には高志の靴が脱ぎ捨てられており、春花は無意識にため息をつきながら中へ入っていく。「遅い」開口一番、高志は不機嫌に言い、その言い草に春花もカチンとなって強い口調で言い返した。「来るなら来るって言ってよ」「言ったよな」「聞いてないよ」「仕事終わったか聞いたんだから、来るに決まってる。それくらいわかるだろ?」春花は帰る前に見た高志からのメッセージを思い出すも、それらしき会話をした記憶はない。「わからないよ」「わからないならお前はバカだ。理解力がない」どこまでもあげつらう高志は自分が正しいとばかりに春花を責め続け、相手をひれ伏さんとする。だが春花ももう限界を超えているのだ。いつまでも高志の言いなりにはならない。春花はぐっと拳を握る。「……もう帰ってよ」ようやく絞り出した声は少し震えてしまったが、それでも負けてたまるかという意志が込められている。「ふざけんなよ」高志の言葉は更にヒートアップし、手が出ることはないものの、春花の胸はえぐられるようにズキズキと痛んだ。悔しくて悔しくて、泣きたくないのに涙が溢れてきて、それを見た高志は更に勝ち誇ったように「泣けばいいと思って」と責め立て、ようやく長いケンカが終わったのは深夜になる頃だった。散々罵り春花を泣かせた高志は気が済んだのか、コロッと態度を変える。「俺は春花が好きだから、春花に会いたかったんだ。俺は春花がいないとダメなんだよ」甘えた声はただの耳障りでしかなく、春花は何も返事ができなかった。「春花、ほらおいで」高志は春花に優しい笑顔を向けながら、春花を包み込むようにぐっと抱きしめる。いつもならこれで仲直りをする。いい子でいたい春花は高志のことを許してしまうのだ。だけど今日の春花は違った。もううんざりだとばかりに、抱きしめられても腕はだらんと下ろしたまま、彼を抱きしめ返すことはなかった。
春花は以前よりも静のCDを聴く日が多くなった。静のピアノは春花の癒しになっている。むしろ今この音源が失くなってしまったら春花の心は崩れてしまうほどに、脆く壊れやすくなっている。静は春花の心の支えなのだ。そんな日々の中、また母から転送される形で郵便が届いた。それを目にした瞬間、春花の期待は一気に高まる。『次も来て』以前、静に掴まれた左手首が急に熱を持つような感覚を覚え、春花ははやる心を抑えながら封を開けた。ペラリと入っている一枚のチケット。 手紙も何もない、無機質な一枚の紙。それなのに春花にはずしりと重みを感じるものだ。「すごいよ、桐谷くん」ほう、とついた感動のため息は、久しぶりに春花の心を明るくさせた。静はどんどんと実績を上げ、自分の地位を確立している。そんな静の活躍に感化され、春花もまた、失いかけていた自分の在り方を見直していた。「私も頑張らなくちゃ」春花は携帯電話をぐっと握ると、ずっと言い出せずにいた言葉をゆっくりと文字に書き起こした。【もう別れよう】ずっと高志との関係を悩んでいた。嫌だと思いながらもずるずると高志のペースに流され、完全に自分の気持ちを押し殺していた。そんな情けない自分ともさよならしたい。春花は震える手で送信ボタンをタップする。すんなり別れてくれたら万々歳だ。だが高志のことだからねちっこく文句を言うかもしれない。いろいろと心の準備をしていると、案の定携帯電話が鳴り出した。春花は大きく深呼吸してから耳に当てる。『別れるってどういうことだよ?』怒り口調なのは想定していた。だから春花は冷静に言葉を紡ぐことができる。「……もう嫌なの。束縛されるのもつらい。いつも私は高志を怒らせちゃうし。別れるのがお互いのためだよ」『はあ? 何言ってんの? まさか好きなやつでもできたのか?』「違うよ」『春花がいないと俺は死ぬよ』怒り口調から、急に弱気な声になる。春花は惑わされないようぐっと堪えるが、妙な罪悪感に苛まれる。だがそれを打ち払うかのように首を横に振った。「……大丈夫だよ。今までありがとう」それだけ言うとそっと通話を終了し、深く息を吐き出した。 携帯電話を握りしめるその手はカタカタと震えてしまう。まずは一歩前進といったところだろうか。春花は緊張から解かれたかのようにベッドに身を投げ出した。
日本の、それも地元で開催するコンサート開催を決めた静は、意を決して春花にチケットを送った。住所が変わっていたらどうしよう、ちゃんと届いたとしても果たして春花は来てくれるだろうか。これ以上後悔はしたくないと思いながらも不安はつのる。だが、それとは別に一歩踏み出した満足感もあった。やっとスタートラインに立てた気がしたのだ。自分が送ったチケットの席番号はわかっている。リハーサルのとき客席に下りて場所を確認し、舞台からもまた確認する。「……意識しすぎだろ、俺」自分の行動に思わず苦笑いをするが、それほどまでに春花を意識していることを改めて実感し、静の気持ちは益々高ぶっていった。 落とされた照明の中、静は春花を見つけた。はっきりとは見えないがそのシルエットだけで春花だと確信が持てる。チケットが届いたこと、春花が来てくれたことが、静の心を安堵と喜びで満たしていく。最高のパフォーマンスでおもてなしをし、春花への想いよどうか届けと願わずにはいられなかった。演奏を終えた静はジャケットだけ脱ぎ捨てると、慌てて出入り口まで走った。あわよくば春花と会いたい。そんな奇跡の再会を夢見るように、ひたすらキョロキョロと探し回る。と、ホールを出たところで一人歩く春花を見つけた。「山名!」静の声にビクッと肩を揺らし、春花は恐る恐る振り返った。「……桐谷、くん?」高校生の頃と全然変わっていない、いや、むしろ外見はとても綺麗で大人の女性になった春花に、静は胸がいっぱいになった。しゃべり方も穏やかで「桐谷くん」と呼んでくれることが何よりも嬉しい。まるで高校生の頃に戻ったかのように錯覚する。だが、ごめんと断りを入れて電話を取った春花の表情はずいぶんと強張っており、静は胸騒ぎがした。そして春花の口から「彼氏が……」と出てきたことに衝撃を受けた。「あはは、もう、困っちゃうよね。束縛なんてさ」何でもないように笑う春花は、音大に行けなくなったと告白した音楽室での出来事を彷彿とさせる。そんな春花を見たかったわけじゃない。幸せそうに笑う、天使みたいな春花を求めていた。五年も経てば環境も考え方も変わるだろう。それを差し引いたとしても、全然幸せそうじゃない春花の姿に静は激しく後悔した。なぜあの時告白しなかったのだろう、と。春花には笑っていてほしいのに。 俺のピアノで癒されるならいくら
告白できなかったからといって、静の春花への気持ちが変わるわけではなかった。――俺が山名の分まで音大で頑張ってくる。ピアニストになってみせる音大に行けなくなったと泣いた春花にそう宣言した手前、頑張らない訳にはいかない。このもどかしくどうにもできない気持ちをぶつけるには、ピアノしかなかった。静にできることはピアノを弾き続けること。努力し続けること。静は大学で一心不乱にピアノに打ち込んだ。その甲斐あってか、静はめきめきと実力を発揮し、コンクールで何度も賞を取って順調に実績を積み重ねていった。静の初めてのコンサートは海外だった。決まったときはただただ嬉しくて、ようやくここまで来たのかと自信に満ち溢れた。「海外に来てとは言えないよな……」静はため息ひとつ、さすがに気が引けて春花にチケットは送らなかった。ここぞと言うときに遠慮してしまう悪い癖はなかなか直らない。あの時だって告白していたら……などと何度後悔したことだろう。「今さら遅いかもしれないけど……」自虐的に笑うと、自分の情けなさが露呈するようでなおさら落ち込んだ。もしも今後日本でコンサートを開催することがあれば、次こそは春花にチケットを送る。これ以上の後悔は重ねたくない。本当に、何もかも祈る気持ちだった。
受験も近くなった頃、暗い表情をした春花を前に静は言葉がでなかった。「……ずっと一緒にピアノを弾きたかった。一緒に音大に行きたかった」春花の絞り出す言葉が矢となって静の心を刺す。ずっとこのまま楽しい毎日が続くのではないかと、錯覚することだってあった。むしろ続いてほしかった。一緒に音大に行きたかったのは静の方だ。春花とずっと一緒にいたいと願っていたのは静なのだ。このショックは計りきれない。春花の落ち込んだ姿を見るのは初めてだった。けれど春花はそれ以上何も言わず、すぐに普段通りの明るい春花に戻った。静にはわかっていた。それが春花の気遣いなのだと。一瞬見せた落ち込んだ姿はまるで嘘のように元の春花に戻っている。もしかしたら抱えきれない大きな不安や悩みがあるのかもしれない。それを押し殺しているのかもしれない。気づけば静は春花の手を掴んでいた。「俺の前で強がったりするな! 泣けばいいだろ」「……ううっ」春花の瞳からはポロポロと涙がこぼれ落ちる。気持ちを押し殺す春花をどうにか解放してやりたい。楽にしてやりたい。卒業式を間近に控えた放課後、二人は思い出のトロイメライを連弾した。これが学生生活最後の連弾かと思うとより一層熱がこもる。隣に座る春花の存在を感じ取りながら、心を込めて鍵盤を打ち鳴らした。演奏後の高揚感は静に勇気を与える。 今が告白のチャンスだと確信した。だが、静の気持ちとは裏腹に春花は笑顔で言う。「ずっと応援してるね。桐谷くんのファン1号だから。コンサートのチケット送ってよね」それは残酷だった。それ以上何も言わないでほしい、このままの関係を崩すなと言われているようにしか思えなかった。静は息をゴクンと飲み込む。 告白する前に玉砕したのだ。「……うん」それしか静は言葉が出ない。告白をするなんていう決意は一瞬で吹き飛んでしまったし、告白をしようという勇気すらどこかへ行ってしまったかのようだ。二人の関係が壊れるのが怖かった。 この心地よい距離感が変わってしまうのが怖かった。――絶対にピアニストになって春花にチケットを送るそう新たに決意し、二人の関係は進展することも壊れることもなく、穏やかに日々が過ぎていく。春花を守りたい。 春花を幸せにしたい。自分に何ができるのか全くわからなかったけれど、ただ、漠然とそう思った。卒業前に春
静はずっと春花が好きだった。 春花の旋律は心地よく、人を癒すような旋律はずっと聴いていられる。まったく飽きない。だが彼女はいつも自分を卑下し、逆に静のピアノをすごいと褒める。それがなんだか悔しく、そしてむず痒かった。音楽一家に生まれた静は小さい頃からピアノを習わされた。強制的に始めたピアノだが、静はピアノが好きだった。重厚で繊細な音色は子供心にも胸を熱くさせる。上手く弾けたときの爽快感や達成感は体が震えるほどだ。だが年齢が上がるにつれて指導が厳しくなっていき、いつしかピアノを好きな気持ちがどこかへいってしまった。――できて当たり前だから誰も褒めてはくれない。ピアニストを目指して頑張ってきたのに、途中で何が何だかよくわからなくなってしまった。そんな時、春花に出会った。同じ音楽部でピアノが大好きで、優しい旋律だけじゃなく楽しそうに弾く。そんな自由な春花を見るたび、静は羨ましくて仕方なかった。「桐谷くんのピアノはずっと聴いていられるね」いつだって春花は静のピアノを褒め讃える。静だけではない、音楽部の一人一人をよく見ていて優しい言葉をかける。静にとって春花は、心にともしびをくれる天使のような存在だった。「あなたたち、連弾してみたらどう?」ある時顧問からそう提案された二人は、遠慮しつつも頷いた。お互い気になる存在ではあるものの、その距離感は遠い。だが、このことをきっかけに静と春花は一緒にいる時間が増え、ピアノの練習を媒介としてプライベートなことも話すようになっていった。それは求めていたことであり、関係が一歩進んだことに喜びを隠しきれない。毎日放課後が楽しくて仕方がなかった。「うちは両親が不仲だからさ、学校にいる方が楽しいんだ。桐谷くんとピアノを弾いている時間が一番楽しいかな」「俺も山名とピアノを弾くの好きだな」「……えへへ」お互い顔を見合わせて照れたように笑う。生きていれば誰だって嫌なことのひとつやふたつあるに決まっている。静だって、ピアノに関して言えば家庭に不満があるのだ。だから春花の悩みもその程度なのだろうと軽く考えていた。そうやって二人は想いを共有し意気投合することで、静の春花に対する想いは募っていった。
◇コンクールも受験も無事に終わり、あとは卒業式を迎えるだけのある日の放課後。二人は音楽室に赴いていた。たくさんの思い出が詰まった音楽室、そしてグランドピアノ。「ねえ、卒業記念にトロイメライ弾かない?」「そうだな。これが山名と弾く最後のピアノか……」「うん、そうだね……」そんな会話をしてしまったために、二人の間にしんみりとした空気が流れる。本当にこれが最後の演奏だ。コンクールがあるからという理由で切磋琢磨してきた時間も、卒業を控えているだけの二人にはもう必要がなくなった。春花は胸の辺りをぐっと押さえる。(この演奏が終わったら告白しよう)これが最後のチャンスだ。これを逃したらもう告白できる気がしない。二人、進路は別々なのだから。決意を胸に春花はピアノに対峙する。隣にいる静をいつも以上に感じながら、想いを込めて鍵盤を打ち鳴らした。二人で奏でるトロイメライは最高に気持ちがいい。ずっと弾いていたい。 ずっと曲が終わらなければいいのに。弾き終わった直後、何物にも代えがたい高揚感が胸を熱くする。この余韻は忘れてはいけない。壊してはいけない。そう感じたからこそ、春花は静にとびきりの笑顔をみせた。「山名、俺……」「ずっと応援してるね。私、桐谷くんのファン1号だから。有名になったらコンサートのチケット送ってよね」「……ああ、わかった」気持ちを誤魔化したあの日。 寂しく笑った静。二人の気持ちは宙に浮いたまま、月日は流れた。◇「あの日って……?」「最後に二人でトロイメライを弾いた日のこと、覚えてる?」「うん」「あの時、俺は春花に伝えたいことがあったんだ」「伝えたいこと……」よみがえる思い出は春花の心臓をぎゅっと締めつける。込み上げる衝動は期待なのか、不安なのか。春花はじっと静の言葉を待つ。「好きだ。高校生の頃からずっと。春花が好きだ」あっという間に春花の心をかっさらうかのように、体の奥から忘れかけていた何かが解き放たれる。閉じ込めていた感情が溢れ出てくるのがわかった。胸が熱く、張り裂けそうになる。「……私も。あの時本当は伝えたかった。桐谷くんのことが好きって。でも言えなかったの……」「春花……」あの時、お互い好き同士だった。お互い遠慮して勇気がなくて、心地よい関係が壊れてしまうのを恐れて伝えることができなかった。一体何
離ればなれになり静がピアニストとして成功を収めていくにつれて、自分とは生きている世界線が違うのだと悟ったあの日、春花は静に対する【好き】という気持ちを【憧れ】へとシフトさせていった。そうやって気持ちをすり替えることで自分自身を納得させて過ごしてきた。だからこそ他に恋人を作ることができたし、高校生の時の思い出は綺麗なまま春花の心の中に大切に保管されている。静と再会できたことは奇跡のように感じるし居候させてもらっていることもまるで夢のようなのだ。ここできちんとけじめをつけないといけないのだろうと、春花は気持ちを強く持った。だがそんな春花の気持ちを静は一瞬で打ち破る。「俺が春花を守るって言っただろ?」その強くて優しい言葉は春花の心に突き刺さった。意図も簡単に。「……桐谷くん優しすぎるよ」「大事な春花のためだから」春花は自分自身が弱っていることを自覚していた。だから静の優しさは心地よくてつい甘えたくなる。高校生の時のようにずっと隣にいたいとさえ思えるのだ。そんなおこがましい考えを振り払うかのように、春花は別の話題を切り出した。「あ、店長が、来るなら一曲弾いてほしいって」「そう? なにがいいかな?」「トロイメライがいい。桐谷くんのトロイメライ、聴きたいな」「春花、来て」「え?」言われて静に着いていった先はピアノルームだ。静は椅子を引いて春花を座らせる。「覚えてるだろ? トロイメライ」「……うん」高校生の時に連弾したトロイメライは、春花にとって死ぬほど練習して今でも思い出して時々弾くくらい覚えている曲だ。静は春花の隣に座った。触れそうで触れない距離は春花の心臓をドキリとさせる。静が鍵盤に手を置いたのを見て、慌てて春花も手を置いた。「いくぞ」すうっという静の呼吸音を合図に、ポロンと指を動かした。春花の指、静の指から繰り出される鍵盤の響きはたくさんの音と混ざりあって深みを増していく。二人で奏でる広い音域はまるでそこに別の空間が存在するかのような魅力的な世界を生み出し、たちまち没頭させていった。久しぶりに沸き上がる高揚感。思い出される青春に胸がいっぱいになる。「春花……」「桐谷くん……」「あの時の続きを言わせて」「あの時?」「そう、最後にトロイメライを演奏した時の続き……」春花は目をぱちくりさせて首を傾げた。
静の家に居候すること早一週間が過ぎた。日々目まぐるしく過ぎていき、ようやくの休日である。春花はアパートの解約手続きをしに不動産屋まで出掛けた。同時に次の物件も探さなくてはいけないため何ヵ所か候補を出してもらい見学をさせてもらったが、結局その場で決めることはできなかった。「おかえり、今日は早かったね」マンションへ帰ると静がキッチンでコーヒーを淹れており、春花にもマグカップを差し出した。「ありがとう。今日は休日なの」「そっか。どこへ行っていたの?」「アパートの解約と次の物件探しだよ」静からマグカップを受け取ろうとして、春花はドキッと肩を揺らす。静の表情が強張っていたからだ。静は落ち着きながらも強い口調で言う。「なんで? 探す必要ないだろ? ここに住めばいいんだから」「ダメだよ」「どうして?」「だって……迷惑かかるし」「俺が一度でも迷惑だって言った?」「言ってないけど。でも……」と、そこで春花は口をつぐむ。いつだったかワイドショーで見た【ピアニスト桐谷静、フルート奏者と熱愛報道】が頭を過り、いたたまれない気持ちになってくるのだ。同級生だから、静が優しいから、だから困っていた春花を助けてくれただけであって、いつまでもそれに甘えてはいけない。静にも、静の恋人にも申し訳ないからだ。だがその事を口に出すことはできなかった。そんなことは知らないままで、ただ静に甘えられたらどんなに幸せだろうか。ずっと好きだったのだ。高校生のときからずっと、春花は静が好きだった。
とても心地良い気分でスッキリと目覚めた春花は、あまりの爽やかさにうーんと大きく伸びをした。久しぶりにぐっすり寝たような、そんな気分だ。自分に掛けられている毛布を見て、ようやくここが静のマンションだったことを思い出した。「……ショパン?」耳を撫でるピアノの音に春花は顔を上げる。心地良い揺らぎはこのピアノの音だったのだろう。静は春花に気付くと、ニッコリ微笑んで演奏の手を止めた。「桐谷くんごめん、なんか寝ちゃって。ショパンだったよね?」「うん。春花がよく眠れるように」「すごくよく眠れたよ」「それならよかった。春花がつらそうに寝てたから」「ねえ、もしかして帰ってきてからずっと弾いていたの?」「春花の寝顔が可愛かったから、ずっと見ていたくて」「ええっ!」流された視線が予想外に甘くて、春花は思わず頬を赤らめながら目をそらす。それに、いつの間にか「山名」から「春花」へ呼び方が変化していることに動揺が走った。変に意識してしまったことに焦りを覚えるが、それに対して静は何も気にしていないようだ。「あ、あのさ、名前で呼ばれるとなんか恥ずかしいっていうか、ドキドキしちゃうっていうか……」ゴニョゴニョと静に訴えてみる。 静は立ち上がり春花の元に行くと、彼女を覗き込むようにして視線を合わせた。「な、なに?」「春花をドキドキさせてるんだ」微妙な距離がもどかしい。 お互いの呼吸音が聞こえ、毛布の擦れる音さえも大きく聞こえる。ドキドキと高鳴る鼓動が聞こえてしまうのではないかと思うほどの距離感は、まるでキスをするような感覚に似ている。近づく距離に反射的に目を閉じた。 と、その時。「ニャア」鳴き声にはっと我に返り、春花はほんの少し仰け反る。猫は春花の腕にグリグリと頭を擦り付けていた。「あ……」「こら、邪魔するなよ」静がため息混じりに猫を抱き上げると、猫は静の腕をするりと抜け、目を真ん丸にしながら床をあざとくゴロンゴロンと転がった。「……お前」「あ、猫。猫飼ってたんだね」「ああ、猫アレルギーじゃないよね?」「大丈夫。すごく人懐っこいね。名前、何て言うの」「……」「……?」静は開きかけた口を躊躇いがちに閉ざし、春花は不思議に思い首を傾げる。ふいと春花から視線をそらすと、ぼそりと呟いた。「……トロイメライ」「ニャア」静の言葉に反応
春花は何だか惨めな気分になり、泣きたくなった。と、突然携帯が鳴り出す。「もしもし?」『春花、何で出ていくんだ?』「高志……。あなたが出ていけって言ったじゃない」『そんなの嘘に決まってるだろ。春花を試したんだ。ああやって言えば春花は優しいから振り向いてくれると思った』何を言われても、高志の言葉は嘘にしか聞こえない。もう彼に振り回されるのはうんざりだ。「もうアパートの契約解除するから。あなたも出ていってね。私知らないから」『は? ちょっと待てお前何言ってんの? くそが、死ねよ』「もう私は死んだと思って。さよなら」春花は今まで出したことのない冷ややかな口調で告げ、乱暴に電話を切った。「はぁー」ほんの少し緊張が解け、その場にペタンとへたれこむ。手のひらから滑り落ちた携帯電話は何度も鳴り続け、高志からの着信履歴で埋まっていった。一体いつまでそうしていたかわからない。「ニャア」「……猫?」春花の左指をクンクンと鼻を擦り付けながら時折ペロペロと舐める猫。「……桐谷くん猫飼ってたんだ。君、慰めてくれるの? 優しいね」「ニャア」猫は人懐っこく春花に擦り寄り、撫でてほしいとばかりに頭をグリグリと寄せる。「ふふっ、可愛いね」春花は要求通り頭を撫でてやる。猫は気持ち良さそうに目を細めた。静が帰宅するとピアノルームから明かりが漏れており、不思議に思ってそっと中を覗く。中では春花が横たわっており、驚いて思わず声を上げそうになった。「春……」「ニャア」春花に包まれるようにして猫が顔を上げ、その心地良さそうな表情に二人で寝ていただけなのかとほっと胸を撫で下ろす。「まったく、驚かすなよ。ほら春花、こんなところで寝ると風邪ひく――」揺り動かそうとして、ハタと手が止まった。春花の目元は涙に濡れ、苦しそうな表情で眠っていたからだ。「ニャア」「お前、春花のこと慰めてたのか? 偉いな」静が撫でようとすると猫はその手をすっと避け、再び春花の胸元で丸くなる。「……おい、飼い主は俺だぞ」静は苦笑いしながら立ち上がると、別室から毛布を持ってきて二人に掛けてやった。コンコンと眠り続ける春花。固く握られた手。静はその手にそっと触れる。「……遅くなってごめん」小さく呟いた言葉は、猫だけが片耳をピクッと揺らして聞いていただけだった。